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ポストモダン社会での教育 (3)

今日は、タイトルの最終回。6と7、そして、このような転換期における教育社会学の今後について筆者のまとめ。最後に、読後の私自身のコメントです。

【目次】
1. ポストモダン段階における教育
2. 市場化する教育
3. 平等状態での両極分解
4. ポストモダン社会での自己責任
5. サルコジ内相と暴徒の対立
6. ポストモダン社会での自己責任
7. 危機回避手段としての教育*
6.ポストモダン社会での自己責任

ポストモダン社会のたどりついた「自由で多様な選択が可能な社会」の深部に潜む黒塊(ネガチィブな側面)

1)被疑者シンドローム仮説
教育システムが完成度を高めれば高めるほど、個々の生徒・学生のやる気、能力・積極性・計画性の格差が、露わにされる不快感

2)社会的連帯破壊仮説
教育分野への市場原理の導入は、これまで社会的連帯と能動的な民主主義に支えられてきた非市場分野(教育・福祉・医療など、人々の相互連帯性に上に成り立ってきた分野)の破壊を招く。

3)情報格差仮説
選択肢は増加したが、選択に必要な情報へのアクセスに格差があり、全ての人々が公平にアクセスできるわけではない。

4)文化資本仮説
シンボル労働が増ええれば増えるほど、ふだんからシンボル操作に慣れている層とか、その子供が有利になり、そこに新たなタイプの格差が発生する。

5)システム潜在欠陥仮説
いくら門戸を幅広く公平に開いていても、学校(大学)内には、不平等な結果を作り出す目に見えない装置が埋め込まれている。

6)ピア効果仮説
自由に学校を選択できるようになると、一つの学校には同じ家庭環境の子供だけが集り、仲間の影響を受けやすい子供の発達に、更に大きな社会格差が生じる。

7)強いとは限らない個人仮説
学校選択が可能になると、親や生徒は様々な情報を集め、判断しなければならなくなるが、全ての親や生徒が自信を持って選択できるわけではない。

8)自己責任仮説
選択に失敗すると、システムの責任は問われず、選んだ親・生徒に全ての責任がかぶされる。

9)不公平結果仮説
いくら障壁を低くしても、依然として結果としての格差が生まれる。

これらの言説の背景には、不安感、反感、不満、不平といった感情が張り付いている。こうした感情的な要素を一切排除して、計算合理的な次元で整理してみると、要するにこれらは、モダン社会での「リスク管理」をどうするかという問題。

7.危機回避手段としての教育


高校卒業以降の教育を念頭に、今後は、労働→学習→労働→学習 というリカレント化が避けられなくなるとの前提。

中等教育以降の教育は、不確かな将来に向けてのリスク回避の手段という観点から、消費者から評価され、選択されることになる。

個人は、ポストモダン社会の生きてゆく以上、「ハイパー・メリトクラシー」に適合した能力を身につけ、我が身を防御しなければならない。

今必要なのは、我が身を投資の対象に見立てて、現在保有している能力の耐用年数を見計らい、まだ残されたエネルギー・時間・寿命・資金を計算しながら、今後需要の高まりそうなポストモダン社会型能力を習得するために、自分自身に向けて投資をする、沿いいう個人である。その時、個人は、「自己という名の経営体」の経営者に変身する。

経営にはリスクが付き物である。たとえ何かの知識・技術を身につけても、その有効期間がどれほどか、誰にもわからない。おそらく諸々の投資の中でも、教育投資ほど危険度の高い投資はないだろう。

ポストモダン社会では、個人は「甲羅をはがされた蟹」のように、丸裸の個人として、リスクに満ちた社会の中を、生きながらえねばならない。そのためには、どのタイミングで投資を行い(learning)、どのタイミングで投資の回収を図るのか(earning)、どのような教育プログラムに参加し、どのような能力を身に着ければよいのか、こうした計画書を書かなければならない。

他方、教育サービスの提供者側は(大学はその一部)、顧客にとって魅力的なカリキュラムとは何か、投資に値する学習プログラムは何か、どのようなタイミング計画、資金計画ならば、十分な顧客層をひきつけられるのか、こうした企画書を練らねばならない。

大学という存在そのものが検証にかけられることになる。

8.おわりに

筆者(潮木守一氏)の仮説
4つの空間
「電脳空間」「ビジネス空間」「記号空間」「英語空間」

国民国家は個人に向かって国民であることを強制したが、ポストモダンの国家は個人に何かを要求することはしない。むしろ個人が自発的に積極的に自主的に上の4つの空間に適応し、その中を生き残るための能力を身につけ、自衛の道を模索することを求めている。

教育社会学の前には解くべき課題が多く横たわっており、それは如何なる解答を提示できるか大きなチャンスでもあり、また答えを提示できず、人々を失望させうる可能性もあるという点で危機にもなりえる。

【コメント】
印象に残ったのは、3点です。

1)教育「平等」システム下での、個人の「不快感」「反感」
先日のフランスの大規模なデモが、教育機会の平等化に成功したポストモダン社会での両極分解現象で、各個人のやる気・能力・意欲が曝け出される「やりきれなさ」「不快感」「反感」を表現している、と読み解いている点。

2)脱教育化
今後必要とされる「コミュニケーション能力」「説得力」「交渉能力」「協調性」「ネットワーク形成能力」を育成するためには、学校、教室、教科、教科書、教師、といった枠組みそのものの問い直しが進み、更に、「教育」という枠組みそのものを解きほぐし、「脱学校化」ならぬ「脱教育化」を図らねばならない可能性もあるという点。

3)丸裸の自己という名の経営体
ポストモダン社会での個人は、丸裸の個人として、「自己という名の経営体」の経営者に変身して、リスクに囲まれた社会で生き残るために、どのタイミングで教育へ投資し、どのタイミングで雇用によって投資の回収を図るのか、「リスク管理」をしていかなければならないという点です。

特に、3)は個人的にも実感しています。5,6年前から年初に一年の目標を計画する際に、PDM(プロジェクト・デザイン・マトリックス)という国際開発業界でプロジェクト管理の際に用いられるツールを使って作成しています。

例えば、10年後、30年後に、自分が仕事や家族との生活で、こういう状態におかれていたいという状態をイメージし、それと現在の自分の状態とのギャップを確認し(現状分析)、何が不足していて、必要なスキルは何なのかを明らかにし(問題分析)、そのギャップを埋めるためにはなにをしなければならないのかを時間軸と一緒にリストアップしていき(活動計画)、それを目標(Goal/Outcome)、成果 (Output)、活動 (Activity)、投入 (Input)と論理的に整合性が取れるように書き込んでいきます。

そして、その進捗を一日、週、月単位で確認し(モニタリング・・・思うように完璧にはできていませんが)、年末に評価し、また年初に改定していく、という作業です。
この表はエクセルで作成しているのですが、いろいろな活動計画をエクセルシートに作っていき、それをハイパーリンクしています。新しい一日のはじめにコンピューターを開けて初めに立ち上げるのは、このシートで、今日は何をするのかを確認するようにしています。

このような作業を始めたきっかけは、自分をマネジメントするためであり、自分のこれまでのキャリアを振り返っても、労働→学習→労働→学習、を繰り返してきており、その背景には社会の「リスク」を自分自身が感じているからだと改めて思いました。

よく「生涯学習(Lifelong learning)」という言葉が学習機会の拡大と柔軟性として使われ、自分たちより一つ、二つ前の世代は、退職後に再度大学や大学院に入り直したり、カルチャーセンターで勉強を楽しんだりすることが普及し、その制度のいい面が強調されてきました。でも、労働市場に乗っかっている世代にとっては、逆に「一生勉強しないと食えない社会」とも言えるわけで、それが、「資格ブーム」や「高学歴化」へとつながっているのではないでしょうか。

いずれにしても、社会や労働市場の不確実性が高まれば高まるほど、雇用の流動性は高まるでしょうし、それに伴って教育の市場化が進んでいくのかもしれません。一方、「教育が経営化」していくことで見落とされる面、例えば異文化相互理解、平和教育(個人間のいざこざを最小限に抑える能力も含む)、などはどのように育成していくのか、どのように社会で認知していくのか、課題は残されています。
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大学06.21(Wed)08:05|コメント(-)|トラックバック(-)|Top↑
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